社長コラム 大田花き代表取締役社長 磯村信夫のコラム

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2024年04月22日

横浜南部市場を再起させる


 昭和48年(1973年)、仙台に中央卸売市場花き部が日本で第一号として誕生した。続いて横浜、翌年神戸に中央卸売市場花き部が開場された。昔は独占禁止法の制約条件で、卸2社体制での開設だったので、横浜南部市場には横浜花き園芸と神奈川県園芸市場の2つが入場した。その神奈川県園芸市場と大田花きの前進の1つである大森園芸には、深い繋がりがある。それは東京都にまだ花の組合が4つもあった頃のことだ。4つのうちの1つ、東京都花き市場協同組合のメンバーは、組合全体で合議し、新市場を責任分担し発展させることにした。王子生花は向島東印花市場、駒込生花は松戸の京葉園芸、大久保生花は山梨の甲府中央市場、芝生花は上野毛の南部市場。東印神奈川(後の神奈川県園芸市場)は大森園芸が担当することになった。その縁が、今も続いている。他の市場の衰勢をここで触れておくと、向島東印花市場は現在、合併して東京フラワーポートとなっている。葛西市場も2社体制で入場したが、その後、一社体制になり東京フラワーポートが出来たが、その中核になったのが向島東印花市場である。京葉園芸は現在廃業し、地元の買参人のためにも現在の第一花きさんの柏分場に移った。甲府中央市場は大久保生花(現・東日本板橋花き)の諸井さんが責任を担っていたが、諸井さんがご病気になられた時に私のところへいらっしゃり、「甲府を頼む」と仰った。その後、大田花きが甲府園芸の経営を見ることになったが、隣の山梨園芸市場さんが頑張っていらっしゃるので、且つ甲府中央市場は社員がご高齢であることを鑑み、会社を畳んで可能な限り買参人は山梨園芸市場さんに移ってもらった。

 横浜南部市場は日本で2番目に開設された中央卸売市場花き部(現在は民営地方卸売市場に転換)であるが、その後、東京都中央卸売市場花き部の大田市場、そして世田谷市場が開設され、いずれも横浜南部市場に近い場所であった。また、南関東花き園芸卸売市場の仲卸も機動力を発揮し、大手の生花店へ納品していることもあり、横浜南部市場は衰退してきてしまった。しかし、東京に次いで日本で2番目の人口を有する横浜市に、花を供給する卸売市場が無くて良いのか。ここを考えた時に、再度力を入れて活性化させようと横浜市は動き、卸はそのままに仲卸を4社体制にした。横浜には独特の文化がある。第一次産業が活発な三浦半島・相模湾の漁港、また、その北の農業地帯、園芸地帯、横浜市とは違った文化がある湘南。少なくともこのエリアは、横浜南部市場が花を供給しなければならない人たちが住むエリアだ。文化も米軍基地やその影響を強く受けたエリア等、大分けして四つの花文化がある。音楽がそうである通り、そこを良く知る人は、やはり神奈川の人、横浜の人でないと駄目だ。

 自主的に卸売市場を運営し、横浜南部市場と南関東花き園芸卸売市場、この2つが神奈川県民に責任を持って花を供給する基地として活躍することが、卸売市場としての役割だと思う。それだけの人口がある。文化がある。その後2030年、どのようになっているか見てもらいたい。発展して成長してもらうことを祈っている。  


 投稿者 磯村信夫 16:20