社長コラム 大田花き代表取締役社長 磯村信夫のコラム

[]

2024年04月15日

小澤征爾さんのお別れ会、参列


 今年のソメイヨシノはまだ見ごろのところもあり、おっかけ八重桜もあるところでは咲いていて、新緑も眩しい。衣替えした人もいれば、流石にダウンを来ている人は少ないが厚手の上着の人もいる。一度に春から初夏が来ているようで、散歩していても何か慌ただしい感じがする。昨日、母校・成城学園で開催された小澤征爾さんのお別れ会に向かうため新宿に行った。私は長袖のワイシャツと上着を着ていったが、ノースリーブの女性もいたくらいだった。休みの日なので、もう少し軽装で来れば良かったと思った。

 小澤征爾さんは満州から引きあげてきてから、成城学園の中学校を卒業、そして高校は音楽を学ぼうと桐朋に移ったが、成城に住まいし、子どもたちも成城学園卒業だ。学校主催のお別れ会は、澤柳記念講堂で開催された。「13時から15時までの間、平服で時間のある時に献花に来てください」とのネット上のご案内があった。私は成城学園の評議員をしている関係から、友人や学校関係者に挨拶しようと13時より少し早く到着したが、既に記念講堂に入る列が出来ていた。

 舞台には、ユー花園さんがデザインした立派な祭壇が設置されていた。13時、献花がはじまる時に、私の親戚の子と小学校の時に同級生だった小澤征爾さんのご子息がマイクを握り、このようにご挨拶された。
「今日は学校でお別れ会を開催してくれて有難うございました。成城らしく何も決めない形で、それは親父が堅苦しいことが嫌いだったということもありますが、ざっくばらんに皆さんの気持ちでお別れしてくだされば。皆さん方お一人お一人に亡き親父の思い出があり、その中で(親父は)いつまでも生きていると思います。小学校の時、親父は成城に住んでいましたから、時々学校に来て、色々なことを授業で言って帰りました。その中の一つ、このようなことで小学生の僕たちに音楽の素晴らしさを教えてくれました」。
 ご子息は講堂の客席に向かって、「この列が『ド』」「そして次のここの列は『ミ』」「この列は『ソ』」と役割を当てられた。
 「ドミソ、これを皆さん方に一緒に発声してもらいたいと思います。小学校の頃、親父は同じように生徒から3人を選んでドミソそれぞれの役割を当てて、声を出してもらいました。皆さん方も一緒に、最初は小さな声で、そしてだんだんと大きな声で。一緒に発声してください。それでは、『ドミソ』」。
 席にいる私たち各自が小さな声で、そしてご子息の指揮に従ってだんだん大きな声で発声した。なんという素晴らしいハーモニーだろうか。
 「小学校の時、親父は『これが音楽だ』と言って家に帰っていきました。一人一人が個性的な役割を果たし、協力して声を出す。そこで何とも言えないハーモニーが音楽になって展開されるのです」。
 ここからは私の想像だが、ピアノを小さいころからやっていた小澤征爾さんは、この考えもあって途中からピアニストから指揮者になったのではないだろうか。それは、自分のかけがえのない人生の中で個性を伸ばす。しかし、協調してみんなと一緒に作り上げることの大切さ。音楽だけではなくて、色々な社会がそのようになっていることを、小学校に遊びに行って成城っ子たちに教えてくれたのだろう。ご子息は次のようなことも仰っていた。
「親父はいつも言っていました。『俺は天才でもなんでもない、努力家だ。作曲家は自身の個性を音符に託して、音楽を作っていった。これを忠実に表現する為に指揮者がいる。こう思って今までも努力してやってきた。年齢と共に譜面にかかれた作曲者の音楽が分かるようになってきたんだよ』」。

 小澤征爾さんはラグビーで指を傷めたりして、ピアノの道から指揮者に転身されたのだと思っていた。しかし、どうもそればかりではなさそうだ。何か「一隅を照らす」と言おうか。その場に欠かせない人になりながらも、全体で一緒に仕事をしていく。あるいは、生きていく。家族だろうが会社だろうが、社会であろうが。そのように状況を整えて生きていくということなのだろう。あまり真面目過ぎず、リラックスしたものが多くあって、しかし、本質を教えられた、そんな昨日のお別れ会だった。どのくらい多くの人が訪れていたか分からなかったが(後でニュースを見たら1,350人もの方がいらっしゃっていた)、商売柄「献花の白のカーネーションは足りたかしら」と心配になりながら会場を後にした。

 
 投稿者 磯村信夫 10:21