花は人に生きていく勇気を与えることが出来る

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 東京盆が終わり、子供たちが夏休みに入った。本格的なと言うより、暑すぎる夏がやってきた。生産者の方々は露地栽培にしてもハウス栽培にしても、農作業が大変なことと思う。熱中症対策を万全にして頑張っていただきたい。我々卸売市場では必要な定温管理を行い、生花店でも生活者の部屋でもクーラーをかけてやっていれば、6月とさほど変わらず、1週間は花もちするだろう。夏の暑い時期でも、需要に応えていきたい。

 心配なのは、年金で生活している年配者に、諸物価の値上がりがダイレクトに影響していることだ。花の大切なお客様である年配者が、生活が苦しいのは困る。こういう時こそ花を飾ってもらいたいので、生花店やスーパーの花売り場では、手間が掛かって大変だろうが、本数を少し減らしてでも、質の良いものを納得出来る価格で販売してもらいたい。

 夏になると7月のお盆、8月のお盆、そして終戦の日があり、“死”について考えることが多い。先日も、大田花きで広報コンサルをお願いしている会社から『鴎外の花』(青木宏一郎著/八坂書房/2024年4月)という本を紹介いただいた。江戸末期に生まれ日清戦争、日露戦争、大正を生きた森鴎外だが、実はガーデニングというのは少し違うが、自分の庭で草花や木が育って花を咲かせていくのを大変楽しみにしていた。庭作りというのとは違っていて、もっと植物本位である。昨年、鴎外の『阿部一族』、また司馬遼太郎の『殉死』を再読していたので、さっそく、この『鴎外の花』にも目を通した。

 私自身は、夏目漱石の「則天去私(そくてんきょし)」や森鴎外の「諦念(ていねん)」のような気持ちを持っている。“死”とは何か。“死”とは、生の最後の行為だ。この世の矛盾を感じながらも、清々しく生きていこうとすることを“死”として捉えている。鴎外の『阿部一族』の死は「真善美」を求める行為である。
 少し角度を変えると、“死”そのものが美しいものであるのかもしれない。日本人にある神道の血から、死は「穢れ」であるが、潔く死んでいくこと、綺麗に死んでいく様々なものも美しいという風に感じるのだろう。そう考えると、昭和20年4月、戦艦大和撃沈で生きながらえた人の証言の中で、部下を生かして自分は大和と一緒に藻屑に消えた上官の姿を思い出す。そのうちの一人の上官だが、部下と一緒に海に投げ出されて丸太に掴まったが、部下たちが丸太に掴まって漂流するのを見届けて、「自分はこれで逝く」と、もう一度大和の方に泳いで行き、そのまま大和と共に沈んでいった上官がいるのだ。役目に準ずること、それが果たせない時に対する唯一の方法が、死んでお詫びすることだった。運命を共にすることだった。
 この暑い夏、「どのように生きていくか」「そして死んでいくか」を、もう一度考える大切な時である。

 先日、悲しいニュースが報道された。誰にもみとられず1人暮らしの自宅で亡くなる「孤独死」した若者(10~30代)が、平成30年~令和2年の3年間に東京23区だけで700人以上になるとのことだ。亡くなってから数日経って発見されるケースも少なくない。自己肯定感が無い、自分を否定してひきこもってしまうのではとされていた。
 どうしたら孤独な若者に、花一輪でもいいから、届けることが出来るだろうか。花一輪だけでも、自分がいなくなったら、両親や周りの人が悲しむであろうことや、生きていく前向きな気持ちに気づいてもらうきっかけになるかもしれない。お釈迦様の教えである通り、花にはその力がある。本当に困って自分を否定している人にこそ、花を届けたいと考えるが、現実はなかなか難しい。友よ、その人に花を届けてくれないか。


投稿者 磯村信夫 13:17