社長コラム 大田花き代表取締役社長 磯村信夫のコラム

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2017年05月22日

石碑竣工


 昨日の小諸は、晴天で暑い位だった。21日(日)、信州切花発祥の地・長野県小諸市大久保で開催された、石碑建立の除幕式に出席してきた。切り花栽培を全国各地に普及した功績を称え、後世に残す為に建立された石碑だ。

 昭和3年、栁沢甫(はじめ)さんが信州で洋菊を作り始め、切り花生産が始まった。この地は耕地面積の狭さから付加価値産業である養蚕が盛んであったが、化学会社・デュポンがナイロンを開発し、絹の需要が大消費地・アメリカで激減した。その為、養蚕が立ち行かなくなり、国のすすめで旧満州に移り住む長野県民が多く、中には村ごと移った所もあるという。そんな中で、川辺村の大久保では、栁沢甫氏の先見性により、菊の切花栽培が始まったのだ。資料には残っていないが、通説によると、イギリスやアメリカで品種改良されたキクを順化させ、挿し芽で増やして栽培したという。菊は挿し芽でないと増えないので数が限られる。従って、相場も安定するのだが、戦時中の統制経済で花を生産出来なかった際、苗保存が大変だったと、昨日集まった地元の方々が仰っていた。

 栁沢甫さんは星野リゾートの三代目と親交があり、星野さんを通じて当時の知識人たちとの付き合いがあったという。また、一番弟子は地元の三愛農園さんのお父様だったそうで、現在でも大久保地区では、二代目、三代目で菊を栽培している。テッポウユリから始まって、姫ユリやリーガルユリ、種物のアスター等、まさに南佐久から更埴全域にわたる今の花き産地に良い影響を与えた。昨日の除幕式には、地元の川辺花き組合だけでなく、長野全般、そして、遠く岩手や茨城等、県外の研修生だった方々も出席されていた。初代の甫さん、そして、二代目の幸雄さんは、花き生産の先駆者として、特に夏場の花き生産の礎を創ってくれた人であった。私の祖父・謙蔵も、父・民夫も、もちろん私も、3代でお世話になっている。特に父・民夫は、学生の頃に栁沢農園で夏を過ごさせて頂き、千曲川で遊んだ思い出をよく話していた。

 さて、現在の川辺地域は、高齢者が殆どだが、個人出荷の方と、JA佐久浅間の花き部会と、出荷の方法は生産者によって異なるが、主として菊類の生産をしている。大変、レベルの高い生産技術を持った人たちで、もちろん、大田花きにもご出荷頂いている。生涯現役で出来るのが農業だ。買っていただく消費者の負託に応えられるよう、時代の要請と共に規格や品種を変えて頂きながら、生産者の方と協力していきたい。

 先人たちのご労苦があり、今の花き生産がある。特に日本の菊生産は、洋菊から始まった訳だから、その労苦たるものは大変なものだっただろう。その労苦を想い、「花き産業を必ずもっと発展させます」と、石碑に誓ってきた次第である。
 
投稿者 磯村信夫 : 16:30