社長コラム 大田花き代表取締役社長 磯村信夫のコラム

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2020年10月12日

日本仏教にこんなにも儒教の教えが…


 コロナ禍で出来た空き時間を使い、興味の深い「宗教」について、文献を拾ったり熟考したりしている。例えば、イスラムにおける唯一神・アッラーの、イスラム教徒の捉え方もようやく納得出来た。そして今、宗教としての”儒教”を理解しようとしている。仏教でのお墓参りや仏壇の花の需要は、花き業界の中でも大きな、大切な需要であるが、本日は、儒教の考えが仏教に取り込まれて、我々日本人の生活の中に定着していることをお伝えしたい。  

 日本の仏教の中に儒教の宗教性が根付いていると言われても、ピンとこない方が多いかもしれない。まずはそこからお話したい。仏教の「この世は四苦八苦だ(つらいものだ)」とする考えと、儒教の「この世は素晴らしいものだ」とする考えは、ある意味では対照的だ。また、仏教では、魂は六道※のどこかで「輪廻転生」を繰り返すから、遺体は単なるモノにすぎないし、特別拝みもしない。祖先を拝めるということも無かった。一方、儒教では「楽しかったこの世にまた帰ってこれる『招魂再生』」が根本にあり、この世に帰ってくるために遺体はそのまま土葬したり、依り代として位牌を拝んだりする。そして、自分が亡くなった後の精神、あるいは、肉体の一部も子孫に受け継がれるという「孝」の思想があるため、亡くなった日の祥月命日にお参りすることに繋がっている。仏教が中国に伝わった時、この相反性を何とかするべく、仏教にはそれまでなかった「孝」の思想を『盂蘭盆教』や『父母恩重教』の経典として新たに作り導入することで、中国での普及を図ったのである。このように、仏教は中国で生き残るため、祖先崇拝を取り込んだまま日本に伝わった。従って、日本の仏教にも、儒教の宗教性が入っているのである。

 亡くなった方の月命日に、仏壇に手を合わせる方も多いだろう。仏壇でご本尊を拝むことは仏教本来のものである(仏教では、解脱出来た人以外は六道※のどこかに輪廻転生する。亡くなってから49日の間にどの道で修行するかが決まるので、もう一度生まれ変わる時には、一段階でも二段階でも楽なところに生まれ変わって欲しいと、初七日から七日ごとにお坊さんにお願いし、四十九日の法要を行う)。ただ、仏壇の中段にある位牌を拝むこと、これは儒教である(前述した通り)。崇仏と慰霊の二つを混合しながら、心では亡き父・母を想いながら日本人は仏壇で拝んでいるのだ。仏壇に拝むことのほかにも、お彼岸やお盆に祖先の墓参りをすることも、お盆の迎え火・送り火、京都で行われる大文字の送り火も、実は儒教の宗教性から来ているものだ。  

 花き業界の大切な需要である仏花や仏壇の花は、慈悲の心を教えてくれるものとして、拝む人の方に向けて、釈尊が「月二回、手向けなさい」と言ったものだ。仏になるために我々は手を合わせているというよりも、むしろ、その宗派の創始者の教えや亡き父母、先祖の教え、その人たちからの自分に対する声を聞こうとしているのではないか。広い意味での先祖崇拝の気持ちがベースにあり、そして、仏壇で手を合わせる。声を「聞く」から日本では「菊」が仏さまの花が使われるようになった。これは語呂合わせだが、我々の習慣はこのようなこと出来ている。仏教の教えである「法華経」でも、美しい花のように在ることを説いているし、ハスの花は仏教と関わりが大変深い。花き業界の皆様にお伝えしたいことは、花そのものが大切な教えを具現化したものだとすれば、毎日花き業界で働くことは、花の教えをいただき精進出来る大変良い仕事ではないか、ということである。

※六道: 「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」

投稿者 磯村信夫 16:03