社長コラム 大田花き代表取締役社長 磯村信夫のコラム

[]

2020年04月20日

宗教から始まる考え方


 外出自粛で自宅にいることが多く、時間が十分にある。よって、今まで出来なかったことをやろうと、いくつか計画を立ててこなしている。その一つが、「宗教」について考えることだ。

 時間を作って考えることはこれまでも行ってきた。例えば、座禅が好きなので(禅といっても臨済禅だが)、少しかじって、時間を見つけて行ってきた。また、哲学もそうだ。高校時代から本格的に取り組もうと思い、社会人になる前に都合、4、5年間はきちんと時間を割いてやってきたつもりだ。理屈っぽい性格だったし、算数・数学・論理学は大好きだったので、哲学的思考はそれなりに身についたと思う。しかし、宗教については全く違う。現在、菩提寺の檀家総代をしているが、経典を読んで考えることはあっても、深く考えることはしてこなかったのだ。そこで、「宗教」とは何か。そして、「神」とは何か。これを考える時間を設けることにした。そして、考えていく途中で、「農業の始まり」について、今まで自分が分かったつもりでいたことと違う発見をしたので、ここでお話したい。また、宗教については、人の脳の中に、自然や魂を神とする信仰や、超人間的なものを神とする思考が人類の進化の中で備わっているという事実を報告したい。
 
 発見したことはこうだ。人類がまだ狩猟民族で定住していなかった時、宗教心に目覚めて、エデンの園からあまり遠くないところに、神殿※を建てた。約B.C.10000年~B.C.8000年前、ストーンヘンジやピラミッドよりもずっと昔の話だ。元々人の住んでいなかったところに神殿を建てて宗教的儀式をする。従って、宗教から「定住」の必要性が出てきたのだ。そこから組織的社会が生まれ、槍から鍬に、動物を倒すことから動物を飼うことになった。農業も、その宗教生活を行う定住の中で始まった。つまり、最初に宗教があって、人の文明が始まったこととなる。今まで、「農業の始まり」について一般的に言われているのは、狩猟時代では、どうしても力の強い部族が獲物を独占したり、あるいは、今のサルたちもそうだが、木の実を取ったり、縄張りが出てきてしまう。したがって、弱い人たちが(大河の側が多いが)定住を始めた。このような話である。しかし、そうではなく、宗教心から神殿を建てて、神殿での儀式のために定住していく。そういう順番なのだ。私は、青森の三内丸山遺跡を見に行ったこともあるが、宗教の観点からこの村落を見ることは無かった。
 
 宗教は「超人間的なものが神だ」と先述したが、必ずしも我々を勇気づけてくれたり、善だけが行われる訳ではない。ギリシャの神々や、聖書でのヤハウェの逸話でも分かる通りだ。これは、我々が生きていく都合から言うと、希望だけを与えられるものではないからではないだろうか。絶望、困惑。むしろその方が多い。しかし、我々はそれを受け止め、そして、神を信じ生活していく。例えば、高速道路の中央分離帯のすぐそばに生えている背丈の高い草木。時速100㎞以上の速さで車が走るので、いつも揺れに揺れていて、振り回されているようにみえる。植物だから動くのが苦手な筈だ。そこで生を受けたその草は、どんな一生を辿っていくのだろうか。それでも耐えているから勇気づけられているが、神は何という運命を草に与えているのか。それにも関わらず、私は自然や神を信じ、そして、我々に恩恵を施してくれていると思って感謝しているのだ。
 
 私の神、私の信仰はなんだろう。これを考え始めたばかりだ。本日は、宗教と農業の関わり、農業の始まりについてだけお伝えした。原始から近代への道が“宗教”から始まったこと。これが、我々の中に本質的に「神」を信じる魂が宿っていて、それなしには生きていけないことを示している。自分に信仰心がないと思っている人でも、自覚がないだけということであろう。
 
 ※「エデンの園」は現在のトルコ南東部、シャンルウルファの近くにあったのではと推測されているそうだ。その郊外の丘の上に、ギョベクリテペという人類最古の神殿がある。ストーンヘンジよりも6000年も前、ピラミッドより7000年も前である。
 

投稿者 磯村信夫 17:25