社長コラム 大田花き代表取締役社長 磯村信夫のコラム

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2021年07月05日

和を以て貴しと為す


 3日(土)、用事があって横浜に行ったが、人出が多く、人気のレストランはソーシャルディスタンスで座席数を減らしていることもあり、夕食時は予約なしでは食事が出来ない風であった。4日(日)はいつも通りお台場のスポーツクラブで午前中を過ごしたが、ここもショッピングセンター等、駐車場に入りきれない車が長い列を作っていた。ボーナスが出た後の最初の週末、若い人を中心に街に出ているのだなと思った。

 首都圏の市場によって花の市況がばらついてきたのは、梅雨らしい梅雨に入った先週からだ。駐車場が確保され、あまり濡れないで買い物が出来るスーパーやホームセンター、あるいは、ショッピングモールの中の花売り場を買参人に多く持つ市場、また、昨日等はイベントや結婚式の需要も多かったので、業務需要メインの買参人、あるいは、サブスクリプションを行う買参人を持つ市場は、梅雨を考えると相場は堅調だ。一方、街の独立店舗を買参人として多く持つ中小市場は、生活者は雨を気にして買い物に出なければならないので、梅雨に入った今、相場水準を落としている。今後、この格差が広がらないようにどうするか。生産者側からすると、収入に影響するので、出荷先を絞らなければならない。また、小売側からすると、品揃えが出来る市場と取引する。地場の中小市場は大型市場とネットワーク化をしていかないと、地元の生活者や小売店の要望に沿うことが出来なくなる。  

 さて、新潮社から出版されている「芸術新潮」7月号は、生誕1,400年を記念した、聖徳太子の特集が組まれている。その中で、「和を以て貴しと為す」の有名な言葉通り、仏教の教えに忠実で、また、悲しいことも沢山経験して育ちながらも立派な執政を行った聖徳太子の言葉にしては、少し強すぎると思っていたものが紹介されており、その本当の意味をようやく理解することが出来た。掲載されている仏像としての聖徳太子のお顔やお姿を拝見して、さらに、尊敬の念を深めた次第である。それは、隋朝の第2代皇帝・煬帝に向けて、聖徳太子が推古天皇に代わって送った国書にある、皆様が良く知る「日出処(ひいづるところ)の天子、書を日没処(ひぼっするところ)の天子に致す。恙無きや云々」という文言である。私は今まで、聖徳太子のことだから当時の中国のことに精通していて、煬帝が悪政を行い暴君とも呼べる人物であったことを知っていたのではないか。従って、遣隋使を送りながらも、隋と対等、ないし、対抗する意味もあって、この言葉を使ったのではないか。そう思い、さすが聖徳太子、「隷属しない日本、独立国としての日本」を意識し、よく言ってくれたと溜飲を下げていた。しかし、「芸術新潮」7月号の東野治之(とうのはるゆき)先生によれば、この言葉は、『大智度論(だいちどろん※大般若経の注釈書)』から借用されたもので、それぞれの東西の方位を示しているに過ぎないとのことだった。私はこの解釈こそが、教養人であり、「和を以て貴しと為す」として、蘇我氏とともに仏教で国を建てようとした聖徳太子の心持ちと合っているものだと納得した。  

 京都の六角堂は、聖徳太子が創建し、遣隋使の小野妹子が太子を思い、花を立てた堂である。また、浄土真宗の親鸞が比叡山から下りてきて、他力の道を自分の宗教上の信念とした場所でもある。聖徳太子を思い、立花した小野妹子の流れを汲むからか、浄土真宗の立花は、東本願寺・西本願寺とも、それは見事なものである。  

 最後に、私と父と聖徳太子のエピソードを。亡くなった私の父・民夫から、小さな頃から「聖徳太子は同時に10人の話を聞くことが出来たと言われているが、同じように、同時に沢山のことが出来るようにならなければならない」と言われてきた。今思い返しても、これは出来なかったなぁと思う。私は算数頭なので、民夫から言われたことを、“ 集合”の考え方に変えながらモノを考えることで実践しようとしたが、中々、難しくてならなかった。この民夫からの教育が、聖徳太子と父親と私との関係で、一番の思い出になっている。日本の為政者には、難しいであろうが聖徳太子のような人になってもらい、日本流の慈愛に満ちた、落ち着いた、人を慮りながらも強さも併せ持つ、そんな政治をしてもらい、運営をしてもらい、社会を作ってもらいたいと思う次第である 。  


投稿者 磯村信夫 16:59